野村茎一作曲工房 音楽コラム2

モダンクラシックの作曲家 野村茎一が音楽雑感を綴ります

 気まぐれ雑記帳 2012-03-30 “分かる”という手順

 

 若い頃に読んだ江戸時代の国学者か誰かの評伝に「幼少期より漢文を習い・・」というようなくだりがあった。おそらく当人はちんぷんかんぷんだったことだろう。

 私は高校時代から「漢文」という独立した授業があった。高校生くらいになれば漢文もよく分かるだろうという、文部科学省のありがたい配慮(むしろ逆配慮か?)によって漢文のテストには問題なく解答できるようになったが、漢文に親しむまでは至らなかった(今でもいくつかの漢詩は暗唱できるので、無理やり)。

 手元に世田谷区教育委員会が編纂した小学生用の教科書「日本語」(低学年、中学年、高学年用の3分冊)があるのだが、これが実に素晴らしい。

 和歌、俳句から漢文、日本の詩、西洋の翻訳詩、能、狂言、歌舞伎まで、相手が小学生だなんて関係ないというような内容。もちろん、やさしく語りかけてくれているが、言葉の問題では解決しないことばかりだ。

 世田谷区教育委員会の英断には敬意を表するとともに、この考え方が日本中に広がれば良いと切に願うものだ。

 

 さて、私が作曲をしようと思い立った中学校1年生の時、当然のことながら何をすればよいのかさっぱり分からなかった。とにかく作曲をしなければならないとだけ思い、1年ものあいだ五線紙に向かい続けた。1曲も完成しないのに、1日も休むことなく五線紙に向かい続けた熱意だけは立派だったと思う。

 2年生の時ころだったか「楽典と楽式」(属 啓成著)という本を手に入れ、それを暗記してしまうほど読み込んだ。いま、それが手許にないということは、形がなくなるほどボロボロにしてしまったということだろう。

 それを読んで何がわかったかというと、おそらく「音読すれば、このような音声が発せられる」という言葉の順序くらいのものだろう。

 

 なぜ、このような物言いをするかをご理解いただくために、試しに“フォルテ”を説明してみていただきたい。ふつうは「強く」と教え込まれているので、それで分かったような気がしているが、楽譜を書くにあたっては(演奏する時も同じだけれど)それでは分からない。

 フォルテを理解しているかどうかは「白地図」ならぬ、デュナーミクアーティキュレーションもない「白楽譜」にフォルテやピアノを書きこんでみれば分かる。

 

 優れた指揮者の演奏する、優れた作曲家による作品を、できれば優れた案内役のもとで聴き続けたらどうだろうか。

 最初はメロディーだけを追っていることだろうが、そのうちオブリガートも聴こえてくることだろう。アーティキュレーションは比較的早い段階で聴きとるだろうが、デュナーミクアゴーギクは聴きとろうと思うようにならなければ「聴いているつもり」で通りすぎてしまう可能性がある。さらに聴きこんでいくと、曲の大まかな構造が見えてくることだろう。そして、適切なナビゲーションがあれば詳細な時系列構造にも気づくことができるだろう。しかし、作曲家が丹精込めて打ち込んでいるのは、曲のどの部分を聴いてもその曲だと分かる統一された個性の表出だったりする。大きなコントラストを持つ対立した主題であったとしても、いわば共通するDNAとなる部分動機を与えて、それが同じ曲の一部分であることを分からせようとしていることにまで気づけば、作曲家も少し安心するかも知れない。それは、手を見ただけで「人のものである」と分かるように、優れた芸術は往々にして生命のデザインに倣っていることが少なくないのだ。

 それで、ようやく「フォルテ」が「強く」などという一言では説明しきれていないことがお分かりいただけたことと思う。

 言葉の説明の前に、子どもたちに実際の音楽に触れさせる大切さもお分かりいただけることだろう。

 

 ここで、世田谷区の教科書「日本語」高学年用にある漢詩をひとつ。

 

 子曰わく、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

 

 これが小学生の理解の範疇にあるとは思えない。しかし、早いうちに「学に志す」というフレーズを心に刻み込んでおかなければ「学に志す」という発想は生まれないだろう。同様に、四十、五十、六十の時にそれぞれの心境を理解できないことだろう。強烈なのは「心の欲する所に従えども、矩を踰(こ)えず」の一文。「思い通りに振舞っても道から外れることがない」というような意味だけれど、言葉では説明しきれない凄さがある。

 

 最後にもうひとつのエピソードを。

 

 私は中学生の時に読んだブルーバックスの「マックスウェルの悪魔」でエントロピーという概念を知り、以後、物理学に興味を持つようになった。

 実は、分からないことのほうが多かったのだが、それでも手当たり次第物理学の書物を読み漁った。そうこうしているうちに相対論がもっとも興味深く思われ、自動的に宇宙論が私のキーワードになった。

 2003年、ダークマターと斥力を持つ謎のエネルギー(ダークエネルギー)が宇宙の9割以上を占め、今まで宇宙の大部分を構成していると考えられてきたバリオンが4%しかないということが明らかになった時、人並みに驚くことができた(もちろん、驚いただけに過ぎない)。

 現代物理学に全く触れることなく過ごしてきた人が、今からチャンドラセカール限界だの、ボルツマン定数だの、Ia型超新星爆発だの、宇宙項の再導入だの、インフレーション理論(経済学ではなく、ビッグバン理論の一部としての)などをただの言葉から実感としての“概念”として捉えるのは大変なことだろう。

 断っておくけれど、私は物理学の素人であって、単なるファンに過ぎない。

 

 孔子の「論語」には次のような言葉もあると世田谷区の教科書は示している。

 

 子曰わく、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむものに如かず。

 

 子どもたちには分かろうと分かるまいと、優れたものを与えるべきだ。いや、子どもだけではない。全ての人がそうあるべきだ。

 

 

 

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