野村茎一作曲工房 音楽コラム2

モダンクラシックの作曲家 野村茎一が音楽雑感を綴ります

音楽コラム 2012-06-02 私が考えるピアノメソードの目指すべきべき姿

 

 私のところにレッスンにおいでになられたピアノの先生がたで、後発優先原則(後発音優先原則)、あるいはそれに相当する言葉を使っている人は一人もいらっしゃいませんでした。

 しかし、そのテクニック自体は全員がご存知です。

 後発優先というのは、前の音の音価が残っているうちに、(異なる声部として)同じ音が楽譜に書かれていれば後からの発音が優先させるという原則です。

 テクニックに名前を付けることは非常に重要です。名前がついた途端、それは秘技でもなんでもなくなりメソード(レッスンにおけるカリキュラム)のひとつになり、レッスンから抜け落ちることがなくなるからです。

 もしスケール(音階)に名前がなかったら、現在のように充実したスケールの練習曲が用意されたでしょうか。

 さらに重要なことがあります。名前が付くことによって「その概念が定義される」ということです。誰もが、そのテクニックについて確信することができます。

 後発優先について言うならば、その問題に関する譜読みの誤りが劇的に減ることでしょう。

 バイエル106番第19小節、右手3拍目にはアルトの2分音符からタイでつながった8分音符Hに重なるソプラノのHがあります。

 ピアノ初心者である生徒の中には「タイでつながった音は弾きなおしてはいけない」というルールがあるので、ソプラノのHを弾くべきなのかどうか迷う人もいます。

 これを説明するときに「はい、弾きますよ」だけで納得できるでしょうか。明確な理由だけが理解を助けることでしょう。

 バイエル106番とそっくりな例がドビュッシーの「子供の領分」グラドゥス・アド・パルナッスム博士」の第13小節1拍目にあります。

 録音を聴くと、完璧主義者として知られるミケランジェリが、この音を発音していません。音楽的な意味ではなく、おそらく単純な読み間違いであると考えられます。なぜなら、このE音にはスタッカートまで付されていて、さらに2小節後の確保(反復)でも1拍目は鳴らされているからです。大家になると誰も間違いは指摘できないという事情もあることでしょう。それどころか、ミケランジェリの演奏を参考にしたのではないかと思われるのですが、ミケランジェリ以降のピアニストのなかにも(一般のピアノ愛好家も)、このE音を打鍵しない人が少なからず存在します。

 

 私は、ここで「後発優先原則」は重要であると言いたのではありません。

 ピアノレッスンにおいて、それを気に留めている先生からだけしか学べないテクニック、つまり先生の秘技のようなものがあってはならないと考えているのです。秘技は、もっと別のところ、音楽表現のように定義できないところで発揮されるべきです。

 某社の「こどものバイエル」第28番の解説には「意味のよく分からない曲です。飛ばしてしまってよいでしょう」と書かれています。

 これには衝撃を受けました。「ウラノメトリア」を書こうという動機付けのひとつにもなりました。

 バイエル第28番は、大きく括(くく)ると「声部の分離」、より詳細な分類では「反復保持音による2声部表現」の重要な練習曲です。指だけではなく、ロールンク方向への手首の傾きを使って、右手だけで2声部を分離表現する最初の練習曲です。

 これが第39番で左手に、第40番で両手に現れ、第56番で見事な仕上げとなります。第56番は、作曲者バイエルの意図のとおりに弾くと、プロピアニストがステージでコンサートピースとして使っても、なんら遜色ないというほど見事な音楽に仕上がります。

 この練習の流れの見事さは他の初心者用メソードには見られないものです。

 余談ですが、バイエルはロールンクに関しても見事な練習の流れを持っています。トンプソン現代ピアノ教本でもロールンク(ローリング・アタック)を扱っていますが、日本語訳が分かりにくく、ピアノ講師がロールンクについて熟知している必要があるかも知れません。

 

 ここでも、もし「声部の分離」「反復保持音」という言葉と定義を理解していれば、前述したような誤った解説などに惑わされることなく、先生がたも確信を持ってレッスンに臨むことができるでしょう。

 

 ピアノのレッスンは、ピアノ各部の名前を知ることと鍵盤の配置を知ることから始まります。

 鍵盤の配置というのは、一例を挙げると、Cis(Des)はCの鍵盤に7割ほど食い込んでおり、Fis(Ges)はFの鍵盤に8割くらい食い込んでいるということです。

 ピアノ鍵盤の絵を描いてもらうと、ピアノの先生でさえ黒鍵を白鍵の中央に描き込むことが多いのですが、そういう黒鍵はGis(As)だけです。

 ここで、ピアノのところに行って、目を閉じてCis-Disのトリルをしてみてください。次にFis-Gisのトリルです。隣り合う黒鍵の幅の違いに驚かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。Fis-Gisのほうが、はっきりと分かるほど狭く配置されています。

 さらに黒鍵の長さが、絵に描くと意外なほど長く、また幅が狭いことにも気づかれることでしょう。目で見ている時には隙間も黒鍵の一部のように感じてしまうのですが、黒鍵の頂上は白鍵の半分の幅しかありません。白鍵を弾く時にも、原則として中央を打鍵するというレッスンをしていれば、黒鍵を外すことが減るかも知れません。

 これが鍵盤の配置です。

 

 そして実技レッスンのスタートは着座位置です。着座位置は直接打鍵に関わってくるので、もっとも重要な項目のひとつです。

 別の某出版社の定番メソードの着座位置の説明には「上半身は正しくして」とか「あまり深く椅子にかけたり、逆に浅すぎたり、足の位置に不注意であったりすることも、演奏の上に影響をおよぼします」などという言葉ばかりで、具体的な指示はありません。何十年も改訂されることもなく、このままです。

 ウラノメトリアでは、着座位置について、高さについては「手首が水平になること」(打鍵に使う筋肉と腱の動きの最適化のために)、椅子の位置については「右手がA1からC8」まで、左手が「A0からC7」まで届き、かつその時に肘の移動が自分自身の胴によって制約を受けにくい距離で、奏者は座面中央に着座するようにと指示しています(小さな子どもは除く)。ピアノからの距離によって、手首が水平になる椅子の高さが変化しますから、先に距離を決めるほうが分かりやすいことでしょう。

 

 少々枝葉末節にまで入り込んでしまいました。

 人間ですから、相性もあって「先生のあたりはずれ」というのはどうしても生じてしまうと思うのですが、習得すべき基本テクニックの指針さえない、という現状は何とかしなければならないと感じています。

 ウラノメトリアも、完璧にはまだほど遠いメソードですが、バイエルのようなすぐれたメソードと併用することによって、バイエルの説明の少なさをカバーしたり、逆にバイエル前半のすぐれた練習曲群によって、ペリオーデ(音楽の句点、読点の表現)感覚の習得が容易になることでしょう。

 これからも、少しでもピアノレッスンの現場に即した、各練習曲がピアニスティック(指とピアノ鍵盤の機能の摺り合わせについて考えぬかれた書法。ショパンの言う“アクロバットではなく、巨匠の難しさ”、つまり実は易しさを指す)に書かれ、しかもペリオーデ分析が可能な音楽的なメソードになるようにウラノメトリアを磨いていきたいと考えています。

 

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