野村茎一作曲工房 音楽コラム2

モダンクラシックの作曲家 野村茎一が音楽雑感を綴ります

気まぐれ雑記帳 2012-10-12 放送大学

 

 少し前に、ツイッターで大学教授を名乗る人物が「放送大学を卒業して大学教授になっている人がいるけど、これってありですか?」というような書き込みをした人がいて、放送大学学園の学長みずからが返信した場面があった。

 状況を説明すると、まず、最初の書き込みを行なった人は、放送大学が正式な大学ではないと思い込んでいる様子だった。

 つまり、入学試験がなく、そんな誰でも入れるような大学を卒業して教授になるとは何事だという憤りのようなものを感じる書き込みだった、と記憶している。

 それに対して放送大学岡部洋一学長(2012年現在)の返信は、穏やかで、しかも毅然としていた。

 それから数ヶ月後、放送大学の「大学の窓」というHRのような番組で岡部学長が、放送大学がオープン・ユニバーシティであることに触れ、そのひとつとして「全教育内容が公開されている」ということを述べておられた。

 教育内容の公開は、非常に素晴らしいことである。つまり授業に関する全ての批判を許容し、応対するという姿勢である。某大学教授は、まずその公開されている講義を受けて(テレビ・ラジオ・インターネットで無料公開されている)、それから批判を行なうべきだっただろう。

 1997年に自由業となって以来、私は放送大学の「卒業意志のない履修生」つまり「ニセ学生」である。

 今日もラジオ講義の「健康と社会」第2回「病の経験と患者の生活の質」という講義を聞いて、疾患と病(やまい)とは異なる概念であるという考え方を知った。これを私が自らの言葉で語るには時間がかかるとは思うけれど、その違いを認識することの重要性を強く認識できたので、いずれ到達できると考えている。

 もし、日本中の全ての大学の講義が公開されたとしよう。私の推測に過ぎないけれども、いくつもの「トンデモ講義」が発見されるのではないだろうか。

 なぜ、このようなことを書くかというと、私自身が大学時代に少なからぬ「トンデモ講義」に出会ってきたからである。

 分野を述べると特定されてしまう可能性があるので明かさずに書くけれど、一般教養の講義に、極めて専門性の高い、しかも特殊で狭小な分野の研究成果についてのみ語った教授がいた。周辺知識がなければ、知的興味が湧かないことはもちろんのこと、そもそも、一般学生には理解不能のような講義内容だった。それが、非常に大きな一般分野を表す講義名で行なわれた。

 放送大学では、それと同じ講座名で素晴らしい講義を受けることができた。

 まず、その分野の認識と受容、歴史と発達が分かりやすく述べられ、それから小項目ひとつひとつを詳細に説明していた。つまり、受講生は、その分野の全体像と各論についての一定の深い知識と概念を得ることができたのである。

 これは一種の知的感動だった。そして、私は放送大学フリークになった。

 現在、音楽に関する講座は開講されていないのだけれど、それでも興味深い講座は数多い。

 看護学などは自分とは無関係と思っていたけれど、その崇高な精神に触れて何度も感動する場面があった。図書館学も驚きの連続だった。「図書館は、いつも新しくあることができる」(いつも同じではないからこそ、足繁く通いたくなる)という考え方や、「ただ静かにしているだけではなく、議論の場であってもよいのはないか」という提言は新鮮だった。

 天文学は、興味ある分野だけに非常に面白い。講座によっては録画してくり返し受講し、自分の言葉で語れるまで学びたいと思って、実際に実行している。

 私のような専門馬鹿を救ってくれる貴重なチャンスが目の前にあるということは、途方もなく幸運であると言えるだろう。

 放送大学は誰でも入学できるけれど、誰もが卒業できるわけではない。これは現在の日本の大学において見習うべき点ではないだろうか。

 放送大学卒業という肩書きは、少なくとも在学中に勉学・研究に励んだ成果であると言えるからである(私は、そもそも入学していないので永遠に卒業できない)。

 

 

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