野村茎一作曲工房 音楽コラム2

モダンクラシックの作曲家 野村茎一が音楽雑感を綴ります

音楽コラム 2012-04-29 師の言葉と私の理解(1)

 

 高校1年の初夏、私は初めて作曲家の土肥泰(どい・ゆたか)先生にお会いした。

 その時16歳(ひょっとしたらまだ15歳だったかも)の私が持参したのは「2本のフルートとピアノのためのソナタ」というラヴェル風の曲だった。

 しばらく(かなりの時間)スコアを眺めてから、土肥先生は「音楽には聴こえる」。と一言おっしゃった。その曲に対する評価は後にも先にもそれだけだった。

 

・師の言葉その1「音楽には聴こえる」

 

 「音楽」とは何かという問題は、その後今に至るまで私を悩ませ鍛え続けてきた。師の言葉から四半世紀後、音楽学者カール・ダールハウスの「音楽美学」を読んで「音楽とは音として鳴り響く内面である」という言葉に出会い共鳴したのだが、まだ違和感があり、それから数年後「音として鳴り響く“美的”内面」ではないかと思い至り、それを私自身の音楽の定義としている。

 

・師の言葉その2「勉強したら頭は良くなるか?」

 

 今でもそうだが、若いころの私は「馬鹿丸出し」だったので(決して謙遜ではない)、和声学などの音楽理論のようなレッスンは時間がかかったが、大楽節をひとつ書いていくような課題は、瞬殺という感じでダメ出しされて終わってしまうのが常だった。土肥先生は、決して彼自身から駄目だとは言わなかった。どのように駄目なのかを私自身が気づくように諭してくださった。

 たとえば「君の曲を一生の間に、この曲しか聴くことができなかった人が人がいたとして、君は後悔しないか?」というように(よほどひどい曲を持って行ったのだろう)。

 何が駄目なのか説明はできないけれど、とにかく駄目であることはすぐに理解した。

 そんな時、先生は禅問答のような問いかけをしてくることがあった。「勉強したら頭は良くなるか?」というのもそのひとつ。

 その後の私の理解はつぎのようなもの。

 いま勉強と言えば、文部科学省の「学習指導要領」のように答えの用意された問題を解けるようになることを指すと思う。だから勉強すると成績が良くなる。これは予定調和であり、努力すれば誰でもある程度実を結ぶので、多少の公平感があるから学校教育としては都合がよい。では「頭が良い」とはどのようなことだろうか。

 私の考えは「本当のことが分かること」。

 天動説は単なる迷信と考えられがちだが、実際には古代ギリシャ(紀元前4世紀ころ)のエウドクソスが理論として唱え、さらにアポロニウスやヒッパルコスらが実際の観測結果とより合致するように「従円」や「周転円」などの精緻な理論を加え、古代ローマのプトレマイオスアリスタルコスによってさらに高度に理論体系化された、れっきとした学説・学問である。

 地動説で有名なガリレオ・ガリレイもピサ大学やパドゥヴァ大学で教鞭をとっていた時には天動説を講義していたことは意外でもある(後年、地動説に転じる)。

 成績が良い人は天動説のテストを受ければ高得点を得ることだろう。しかし、頭が良い人は地動説にたどり着くかも知れない。

 これは、もう予定調和の世界ではない。テストに、いつも試験範囲外の問題が出るようなものだ。

 これを作曲に置き換えて極論するならば「作曲理論は習えても“作曲”そのものは習うことができない」ことになる。作曲を志す者にできることは学ぶことだけ。

 先生が私に求めていたのは、まさにそれだった。

 

・私の理解その1「学ぶとは、それを知る前と知った後、あるいは理解する前とした後とで行動が変わること」

 

 私のお馬鹿の旅は続く。いまでは理解できるものであっても、当時は先生の言葉はちんぷんかんぷんだった。

 何年も経ってから、先生に聞いた言葉に出会い、突然「そういうことだったのか」と閃いて理解する場面に出会うこともしばしばだった。

 学ぶという行為は受動的なものではなく、極めて能動的なものだ。勉強したほうが良いと聞かされてそのとおりだと思ってもなかなか勉強できないものだが、勉強しなければと決意すれば勉強することができる。つまり、学ぶとは知ることではない。自分が変わることだ。 

 私は土肥先生のレッスンを受けるたびに少しずつ変わっていった。もし、私が自分自身を褒めることがあるとしたら、土肥先生の言葉で変わることができたということだろう。同じレッスンを受けていても変われなかった人もいただろうからである。

 

・師の言葉その3「作曲するということは音楽史に並ばんとすることだ」

 

 実は、先生は上のような言葉を言ったわけではない。これは私の意訳なのだが、当たらずとも遠からずだと思う。

 ある時、先生は私の8小節(大楽節)をモーツァルトベートーヴェンと比較したのだった。高校生だった私は、それを聞いて頭がクラクラした。雲の上どころか音楽宇宙の果てのような存在の天才たちと私を比べてどうするんだ、と少々苛立ちすら覚えた。

 しかし、後年、私の作品が演奏会のプログラムでショパンとドビュッシーに挟まれた時、心の底から理解した。先生の“言うとおり”だったからだ。

 駆け出しの作曲家だろうがなんだろうが、聴衆の耳は容赦ない。作曲するということの厳しさは過去の天才たちの存在にあったのだ。そして、それはおそらく先生も同じ体験をなされて、それを私に伝えて下さったに違いないのだった。私が真に理解するまでに20年という長い歳月を要したのだった。

 

 

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