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野村茎一作曲工房 音楽コラム2

モダンクラシックの作曲家 野村茎一が音楽雑感を綴ります

音楽コラム 2012-10-03 優先順位

 

 優先順位というと真っ先に思い出すのが、ウラノメトリアでは「後発優先(こうはつゆうせん)」、つまり後発音優先原則だろう。

 これは同じ音高にまだ音価が残っている音符があろうとも、後の発音タイミングが優先されるという単純な原則である。

 たとえばピアノ曲。拍子が4分の4(しぶんのし)で、2部音符の同音連打の場合、先発音を厳密に2拍保っていたら高発音はアタックのタイミングを失ってしまう。高発音を優先するために、先発音は音価を短めに切り上げて後発音に譲ることが普通に行なわれている。

 異なる声部になると当たり前のように後発優先の場面が登場する。サティのジムノペディ第1番などは後発優先のオンパレードだし、ドビュッシーも然り。

 実は、こんな当たり前のようなことにわざわざ名前を付けて解説することに大きな意味がある。

 私たちは当たり前のようにやっていることに関して、その重要性が分からないのだ。

 天才ピアニストにレッスンを受ければ分かるけれど、彼らはすでに弾けることが前提なので、普通の人がなぜ弾けないのか分からない。だから、そのことに関して助言することが難しい。

 

 全く異なる状況で優先順位について考えてみると分かりやすい。

 日本人にとっては、水道から流れでてくる水もボトル詰めされた水も、どちらも水である。

 世界には住居から離れた水場から水汲みをして溜め水として使わなければならない人々がたくさんいる。むしろ多数派と言えるだろう。

 流水と溜め水は、別の名前で呼ばなければならないほど、その性質が異なる。

 乳児の哺乳瓶を洗うことを考えてみよう。清浄な流水で洗えば、細菌や汚れはどんどん流されていき、再付着する可能性は低い。しかし、溜め水で洗った場合は細菌や汚れを取り去ることが難しいことは想像に難(かた)くないだろう。

 また、熱帯・亜熱帯などの地域では溜め水にはアメーバ赤痢の原因菌などが繁殖する可能性が高い。それを飲み水とすることは免疫力の低い子どもたちにとっては命取りとなることもある。

 発展途上国の乳幼児死亡率を下げるために最優先しなければならないことのひとつが、上水道の整備であることがこのことからも分かる。

 流水を当たり前のように使っている私たちが、そのことに気づくには、このような考え方に接する以外は難しいのではないだろうか。

(対策は他にもあるけれど今はそれを羅列することが趣旨ではないので、興味を持たれた方は、ぜひ調べてみていただきたい)

 

 作曲を勉強する、と言った時の最優先事項は「音楽を聴くこと」である。

 これも説明が必要である。

 レオナルド以前は、絵画は所謂(いわゆる)写実ではなかった。子どもが太陽やチューリップを記号化して描くのと同じように、それぞれの文化が記号化様式を持っていた。

 たとえば古代エジプトの人物画は真横から見た顔、正面から見た肩と胸、斜めから見た腰と足という3面図のようなスタイルで描かれている。

 あるいは、中世のヨーロッパ絵画(主としてビザンティン美術)や日本の浮世絵などは遠景・近景という2次元レイヤーの重なりで描かれている。

 ところが13世紀に現れたジョット(ジョット・ディ・ボンドーネ:1267?-1337)が、3次元的に連なる空間の広がりを表現して人々を驚かせた(残念なことに現代人は驚けなかったりする。驚くためには当時の人々の感覚と同化する必要がある)。

 当時のジョットの遠近法は曖昧なもので、デッサンが狂って見えるようなところがあった。しかし、ジョットの表現法を知った画家たちはこぞって奥行き表現を真似た。

 遠近法(透視図法)に最も重要な消失点に最初に気づいたのがマザッチオ(本名はトンマーゾ・ディ・セル・ジョヴァンニ・モーネ・カッサーイ:1401-1428)であると考えられている。消失点は1から3点まであり得るが、消失点を設定することによって正確な補助線が描けるためにデッサンの狂いは生じにくくなる。

 これを厳密に追究したのがレオナルド・ダ・ヴィンチである。彼の「東方三博士の礼拝」下絵(下絵だけがレオナルド本人の筆による)には透視図法における数多くの正確な補助線を見ることができる。

 また、同じくレオナルドの「受胎告知」では空気遠近法の技法を見ることもできる。

 実際の風景、あるいは目の前の光景を見るということは、そこに家があるとか木が立っているということを見るのではない。その裏側にある、家や木を見せている仕組みを見るということである。

 大画家たちの作品を鑑賞するときにも、彼らが何に気づいていたのかを読み取ることは大切だろう。

 付け加えておくと、透視図法が当たり前になってからセザンヌは意識的にそれをずらして描き、ジョルジョ・デ・キリコ1888-1978)は消失点を4点以上設定して現実ではあり得ない風景を描いた。ワシリー・カンディンスキー1866-1944)は、はじめから消失点などない画面を作り出した。これはもう誰がどこから見ている構図なのか分からない。

 

 ようやく「音楽を聴く」という本題に入る。

 絵画でも音楽でも着眼点は無数にあり、前述した絵画における例でも色彩やシャドウとシェイド、マチエールなどには全く触れていない。

 だから、ここでもほんの一例を挙げるにとどめなければならないことを予(あらかじ)め申し添えておく。

 

 ホモフォニー音楽の全てが2次元的であるとは言わないが、概ねそのように考えてよいだろう。

 ピアノにおけるポリフォニー、あるいはアンサンブルやオーケストラのように複旋律音楽なら、そのまま立体表現(比喩的だけれど)が可能である。

 この分野におけるレオナルドに相当するのはバッハである。彼はフーガやカノンを書く時に、テーマの音価2倍にしたり、逆に2分の1にしたりして、それらを同時に鳴らす技法を使っている。

 それらを聴くと電車などに乗っていて通り過ぎる景色を見る時に経験する「近景」と「遠景」の速度差のように感じることだろう。つまり、立体表現である。

 ロマン派や古典派になってからも、それがフーガなどのいわゆる対位法の正統な技法でないところでも音楽的な立体表現が至るところに見られる。モーツァルトのジュピター終楽章などはその際たるものだけれど、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章再現部なども見事な例のひとつだろう。

 順序が逆になるけれども、バッハやモーツァルトベートーヴェンは、ひとつの動機を様々な形で登場されることによって2次元的な広がりを持たせることに成功している。つまり、その曲のどの部分を聴いても、それが同じ曲の一部であることを感じさせるということだ。

 長くなってしまったので、まとめに入る。

 音楽を聴くということはメロディーと和声をたどることだけではない。ピアノ曲ならば音並びから運指を聴き取って、それがピアニストの指と鍵盤の機能の摺り合わせに適(かな)うものであるかどうかが分かることだろう。それでない曲は、ピアニストが弾きたがらないことだろう。なぜなら自分を活かせないからだ。これは器楽・声楽を問わず全ての演奏家に言えることだろう。

 また、多くの聴衆・演奏家が20世紀現代音楽に現れることの多い、いわゆる“不協和音”を嫌うが、その理由は意外に単純で、その和音に含まれるアヴォイド(忌避音)に作曲家が気づけば、少なくとも避けられることはなくなるだろう。「アヴォイドがいいんだ」という作曲家は、それでよいが(作曲家は何を書いても構わない)、そのような姿勢では演奏家や聴衆の共感を得ることは難しいだろう。

 どんなに高度な曲でも、それが高度な精神性と美学に裏打ちされていれば、いつか理解者が現れることだろう。しかし、アヴォイドを聴き取れない作曲家に美学があるとは、私には思えない。大作曲家たちは、ちょっと聴くと強烈な不協和音に聴こえても、アヴォイドは外すのが普通である。アヴォイドは、同じ音でも1オクターブ上下させるだけで解消することもあるので、このセンスは大作曲家たちの曲から聴きとるしかない。

 しかし、何より大切なのは音楽語法を聴きとることだ。言語でたとえるならば、日本語が分かっていないと日本語は、ただの音声の羅列になってしまうのと似ている。しかし、音楽は言語ほど極端ではない。ちょっとした方言程度のものなので恐れる必要はない。

 音楽を聴く時の最優先順位を決めることは難しいが、もし、あなたが演奏家や作曲家を志すとしたら、今までに述べた要素のどれかひとつずつを最優先と決めて聴きこんでいただきたいと思う。

 メロディーを追うことを最優先としていたら気づかなかったであろう新しい発見、新しい世界が開けることを願っています。